Priceのブログ

経済と進化論と人類

6年前、パティシエを目指していた彼女が言ったこと

先日、ランニングをしていた時に、ふと、ラジオを聴いてみた時の話だ。

 

学生のころ、よくラジオを聴いていた。聴いていた、というよりは、流していた、流れていた、という言い方がぴったりくるのかもしれない。

ただ、試験勉強、研究室で、一人で黙々と机に向かっているとき、何かを伝えようとするだれかの声が近くにあることは、なにか孤独な自分と世界を繋げるか細い糸のような存在を感じさせ、不思議な頼もしさがあったものである。

 

そもそもラジオというのは不思議な魅力のあるメディアだと思う。

オードリーのオールナイトニッポンでは、リスナーの事を「リトルトゥース」と呼ぶのだそうだ。

はじめはオードリーの二人が悪ふざけで言っていたものが、ハガキ職人のリスナー達もそれに合わせてリトルトゥースを自称するようになり、いつしかお約束になっていったのだという。僕はこの"ラジオノリ"がけっこう好きだ。

 

オードリーの2人がファンに会うと、大抵の人は「いつもテレビで見てます!」「この間の◯◯の漫才、面白かったです!」などと元気よく声をかけてくれるのだが、ラジオのリスナーは少し違う。

ラジオのリスナーは大抵、もったいつけたように「…実は僕、"リトルトゥース"なんです」と、まるで内緒話をするかのように打ち明けてくるのだそうだ。

そして、言われた方も、なんだか照れくさいような、居心地悪いが、でもなにかより親密なつながりを感じるような気持ちになるのだという。

 

声だけが聞こえる、というのは、実に可笑しな感覚だ。

高校生の時、予備校の同じクラスに気になっている女子がいた。セーラー服から姿勢良く伸びる長い首にストレートの黒髪が似合っていて、ほぼ、というよりは完全に一目惚れだったと思う。

そんな彼女とやっとの思いで電話番号を交換し、初めて電話をかけた時の事をよく覚えている。

(念のため言っておくと、彼女は"パティシエを目指していた彼女"とは何らの関係も無い)

 

予備校の後、帰ってお風呂が終わったかな、なんて調子でタイミングを見計らって電話をかけると(今思えば気色の悪い男である)、彼女は驚くほどあっさりと電話に出た。

「何してた?」と聞くと、彼女は横にでもなっていたのか、少し苦しそうな声で「今ね、お風呂入ってた」と言った。僕が世界一興奮したことは言うまでもない。

その後は、その日の予備校の授業の話や、クラスの生徒の話など、他愛のない話を一時間以上もした。

 

耳元で聞こえる彼女の声は、紛れもなく、世界で自分のためだけに向けられた言葉だった。

スピーカーごしにいつもより少しくぐもったように聞こえる声が、ことさらにそれを意識させるようだった。

沈黙も僕と彼女の間だけにあり、その間には沈黙以外には何もなかった。

 

声だけでつながっているというのは、伝えたい想いの(あるいは伝えられないままならさの)純粋培養で、遊びがない。

作り笑顔でごまかすことも、伏し目がちに、言いづらそうに話し始めることもできない。相手がどんな顔で聴いてるのかすらも分からない。

だからこそ、自分ができる精一杯を言葉に込めるしかない。

それが、声だけで繋がった人と人を、空間をこえて結びつけるのかもしれない。

 

話がずれたが、ラジオの話である。

 

最近はなにかと言えば専らニュースや経済関連のポッドキャストばかりを聞いてるのだが、ふと、学生時代によく聴いていた(流れていた)ラジオをかけてみることにした。

 

その番組はいわゆる学生向けのお悩み相談番組なのだが、自分が学生の時代から平日毎夜、二時間以上の放送枠を保ち続けている超人気番組である。

 

代わる代わる電話で出演する学生たちは揃いも揃ってカチコチに緊張してしまっていて、肝心の悩みというのもごくありふれた、とるに足らないものが大抵だ。

しかし、それでもこの番組に聴き入ってしまうのは、そこに切実なリアリティがあるからだろう。

 

採用面接に入ることがたびたびある。

幸い優秀な方々と出会えているお陰か、彼らは自らの経験を振り返り、抽象化し、課題の構造を論理的に再構築し、取り組みの成果を理路整然と説明してくれる。

言っておきたいのは、自分も面接官としてそれを期待しているし、それができる人と一緒に働きたいと思っている。

 

しかし、採用面接では、まさに葛藤に直面している姿、なにが正しいのか、皆目見当もつかない中でそれでも答えを見つけようと足掻いている姿を、生中継で見ることはできない。

 

人は弱くて非合理だ。

誰もが、理性的で正しい自分と、我が儘で不道徳な自分の両方を住まわせていて、多かれ少なかれ、その間で揺れ動く。

そんな板挟みの中で後悔したり大恥をかいたり、胸が締め付けられるような思いをしながら、なんとか強い自分であろうと暗中模索する、そんな姿を生きざまというのだと思う。

美しく外さないサクセスストーリーよりも、"生きざま"にこそ見ている人間の胸を打つものがあるのだ。

 

その日の番組は、以前出演したリスナーが再登場し、当時の悩み相談の後日談を聞く、という企画だった。

人見知りだった女の子が、番組をきっかけに恋人ができたのだ、とか、進路に悩んでいた高校生が今は就職していて、といったような、素人版あの人はいま、といった趣向の企画だ。

 

その中で、6年前に出演したのだという女の子がいた。

6年前、彼女は高校三年生だった。パティシエの専門学校への進学が決まっているのだが、バナナが苦手で不安だ、というなんとも気の抜けた相談をしていたのだった。

それが6年ぶりのご本人登場ということで、バナナは克服できたのか、パティシエになる事ができたのか、少し気になって、聞いていた。

前回の出演時には、ある著名なアーティストから、バナナが嫌いなあなたにしか作れないバナナのお菓子があるはすだ、と熱烈な励ましを受けたのだという事だった。

 

結論から言うと、彼女はしっかりとパティシエになっていた。

専門学校を卒業した後、ケーキ屋さんに就職し、今はカフェに勤めて、日々、お菓子を作っているのだという。

よかった、彼女は前に進んでいた。

悩みはあるのかもしれない、転職した理由は前向きなものではなかったのかもしれない。それでも、彼女は腐る事なく、パティシエという道を進んでいるのだ。

トップランナーではないのだろうし、事によっては周回遅れかもしれないが、それでも進んでいる事はたしかだし、それが一番大事だ。

 

24歳としては少したどたどしく、頼りなげな声をした彼女は、それでも自分の言葉で、この6年間の出来事を語っていた。

 

番組も終盤にさしかかり、パーナリティがこんな質問をした。おそらく、大志を抱いていることを期待しての質問だろう。

"今は何か夢はあるの?"

彼女は言った

"夢とかではないんですけど、今は、美味しいと言ってもらえるお菓子を作るのに精一杯で"

"でも、それを続けていきたい"、と

 

正直なところ、パーソナリティが期待した答えではなかったのだろう。

君なら君にしか作れないお菓子が作れるよ!といったような熱の篭った激励と共に、彼女のくだりは終わった。

 

18歳だった彼女は24歳になり、夢を失ってしまったのだろうか。

たしかに、野心のようなものではないのかもしれない。

でも、彼女は天職にありついたのかもしれない、とも思った。

 

野心を持ち続ける事は難しい。しかし、今やっている事を続けたいと思えることは、より難しい。

言い方を変えれば、富や名声を喜べることは当たり前である。一方で、生み出した何かが社会から承認されること、そのサイクルそのものに喜びを見出す事は、実は難しい。

 

受け手の問題もある。あなたが作っている請求書がなければ当たり前の経済活動がまわらないのに、それを分かりやすくありがたがってくれる人は少ない。

だが、どんなに客や上司が喜んでも、あなたがあなたの仕事に価値を見出さない限りは、あなたは喜びを感じられない。

 

職業とはなんなのだろうか。進歩や達成は職業の本質ではない。

社会が承認し対価を払ってくれるものと、あなたが価値を感じるもの。やるべきだと思えること。

それらが一致した時、あなたは初めて職業として、それに人生の、つまりは命の一部を、喜んで差し出すことができる。

そして進歩や達成はそれを何倍にも増幅して、あなたを含む全員を幸せにしてくれる。

前者が欠けると、それは残念ながら業(なりわい)にはならない。後者が欠ければ、それは不幸にも人生を浪費してしまうことだ。

 

件のラジオの彼女は、美味しいと言ってもらえるお菓子を作るという思いに、その大義に命を差し出すことに、迷いがなかった。

パティシエとして名を挙げることも、彼女にしか作れないお菓子を作ることも、彼女には必要ないのである。

数年間の就業経験を経て、彼女は自分の命を差し出すにふさわしい大義を見つけることができたのだ。

 

あなたの仕事の価値とはなんだろうか。社会に対してどのような役割を担っているのだろうか。腹の底から担うべきだと感じることは何だろうか。

上司や身の回りからの評価に惑わされてはいけない。自分にしか出来ない事でも、誰でも出来る事でも、どちらでも良い。

あなた自身が腹の底から納得できる大義である事が重要だ。

あなたが何かを提供する事が、自らの命ある事の意味なのだと、心の底から思えた時に、幸せな職業人生を送る事ができるのだろう。

なぜなら、あなたの仕事の価値を自ら定義するという行いは、あなたがあなた自身を承認してあげる過程に他ならないからである。

 

 

余談であるが、アーティストから熱烈な励ましを受けた彼女だが、バナナを好きになる事はなかったようである。